体育なくても人は生きられる──俺を落ちこぼれにした相対評価の罪

中1のときや。体育の先生に「お前は何やってもダメだな」と言われた瞬間、俺の体育人生は終わった。
それから全部の体育の授業をボイコット。先生が変わっても戻らんかった。

そのうち中学にも行かんようになって、フリースクールに通うことになった。
そこには体育なんて科目はなくて、正直ホッとした。
でも、体育だけやなくて、中学そのものに対しても俺は心を閉ざした。


努力が報われない教室

当時の中学校は相対評価制度やった。
英語も社会も得意で、必死に勉強しても「3」以上になったことは一度もない。
なんでかって?
クラスの中で成績上位に入れる人数が、最初から決まってたからや。

相対評価は、「成績の座席取りゲーム」や。
全員が頑張っても、上がれるのは枠に入った一握りだけ。
残りは自動的に“落ちこぼれ役”にされる。
その役がたまたま俺やった。それだけや。


フリースクールへの逃避と決意

「頑張っても無駄なら、もう中学いかん!」
そう腹をくくった俺は、私立高校に進学することを決めた。
フリースクールに通っている間は、得意科目を伸ばすことに専念できたし、変な上下関係や罵倒もなかった。
あの空間は、俺にとって酸素ボンベやった。


今なら…と思うこと

今の中学は絶対評価になってるらしい。
努力したら、その分だけ評価される。
もし俺がその制度の中におったら──
英語や社会で高評価をもらって、モチベも保てて、良い高校に行けて、もしかしたら大学も中退せんかったかもしれん。


結論

昔の相対評価制度は、間違いなく落ちこぼれ製造機やった。
努力が報われへん環境は、人の未来を平気で潰す。
逆に、努力が正しく評価される環境は、命綱にもなる。

今の子らは、その命綱を握れる時代に生きてる。
せやからこそ、大人は二度と“座席取りゲーム”を教育に持ち込んだらあかんのや。

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