俺は、なぜ「怒る」のか
俺の書く文章は、よく言われる。「怒ってるよな」って。
でもそれは、ただの怒鳴り声でも暴言でもない。 俺にとっての怒りは、“違和感の翻訳”なんや。
この社会に生きてると、どうしても「おかしい」と思うことがある。 でもそれを真面目に言ったら、「意識高い系」とか「陰謀論者」とか「拗らせ系」って、 すぐにラベルを貼られて終わる。
せやけどな、俺の中ではその違和感こそがリアルやった。 それが書く理由。俺の“叫び”は、感情やなくて「構造への警鐘」や。
この世界は「操作される前提」で動いてる
見てるつもりでも、見せられてる。 選んでるつもりでも、選ばされてる。
Googleの検索結果、SNSのタイムライン、テレビのニュース、 どれもこれも、俺たち庶民が“考えずに流される”ように設計されとる。
情報の自由化? 民主化? 笑わせんなよ。
「調べられる=自由」やなくて、「調べられない=支配」や。 最初から、俺らが“見えないこと”にされてるものがある。
知識こそが唯一の武器や
俺が大切にしてるのは、知識や。学歴やない。権力でも金でもない。
考える力、繋げる力、自分で納得できるまで追いかける力。
これを持ってへんと、気づかへんうちに“飼いならされる”んや。
今の社会は、「知らないままにしておく」構造で出来とる。 教育もそう。報道もそう。ネットもそう。
せやけど、知識を武器にすれば、俺らはちゃんと戦える。 誰かを攻撃するためやない。自分の頭で立つためや。
怒りは感情やない。構造への警鐘や。
俺の怒りはな、誰かへの私怨やない。
もっと根っこにある、“構造そのもの”への反応や。
なぜ教育は考えさせないように出来てるのか。 なぜメディアは怒りを別の話題で消すのか。 なぜSNSは思考じゃなく感情を優先させるのか。
──それに「黙って従ってろ」という空気こそが、 一番の敵なんや。
俺はそれをぶち壊したい。
庶民ってなんやろうな?
俺は、庶民や。間違いなく。
特別な生まれでも、華やかな経歴でもない。 でもそれを恥じたことは一度もない。
むしろ「下に見られること前提」で扱われることに、 怒りが湧いた。
“庶民”ってのは、上から都合よく管理するためのラベルや。 でもその庶民が考えだしたら、何が起きるか?
……支配が崩れる。
だから俺は、庶民のままで“知る”選択をした。
孤独を選んだわけじゃない。でも、孤独から生まれた言葉がある
わかってるで。俺の言うてること、全部が理解されるとは思ってへん。
でもな、誰にも期待せず、誰にも媚びずに考え抜いた言葉には、 確かな重みがある。
孤独の中で、自分だけの視点を見つけた。 それが文章になって、人に届くなら── 俺はもう、それでええねん。
誰かが同じように違和感を持ったとき、 「あ、こんなやつもおるんや」って思ってもらえたら。
それだけで俺は、書いた意味があると思う。
最後に:俺の思想は、誰かの解放であってほしい
俺は教祖でもなければ、先生でもない。
でも、「気づいてるやつがいる」っていう事実を、 この世界に一つでも多く残しておきたい。
考えろ。感じろ。疑え。 でも最後に信じるのは、自分の頭や。
俺の言葉はそのための「引き金」でええ。
撃つのは、お前や。
じゃあ、どうすればええ?
考えるだけやなく、日々の選択を変えてみるんや。
ニュースをそのまま信じるんやなくて、裏を想像してみる。
偉そうな誰かの言葉より、自分の違和感を信じる。
それが“解放”への第一歩や。
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