リモートが“当たり前”になる前に──マニラ50人戦線の記

序章:2008年、マニラ

MSNメッセンジャーの通知音が鳴り止まない。
電話もつながらん、VPNも切れてる。
50人のチームが右往左往する中、俺はひとり「台湾経由で回線切り替えろ!」と叫んでた。

そう、あれが“リモートワーク”なんて言葉すら無かった時代の、俺の初仕事。
今でこそカフェでノートPC広げて“リモートエンジニア”なんて名乗るやつも増えたけど、当時は地獄のサバイバルだったんだゾ。


第一章:言葉より先に炎上

“Yes”と言ったからって、そいつが“理解した”とは限らない。
マニラに来て三日目。
進捗確認しても「OK sir!」「No problem!」ばっか返ってくる。
けどソース開いたら、仕様の1/3も通ってない!!!!!

最初は笑ってた。「まぁ文化の違いやな」って。
けど笑いごとやなかったんや。
ここはもう、日本語も英語も通じへん世界\(^o^)/

会議ログはMSN。翻訳ツールも使えない。
日本側からは「なぜ進まない!」「報告が遅い!」。
マニラ側は「Yes」「No Problem」だけ。
誰も“どこで止まってるか”を把握できん。

そのうち日本本社の取締役までチャットに乱入してきて、
俺はもう“英語で怒鳴られる日本人代表”やった🤣🤣🤣

通信遅延、仕様齟齬、文化の壁。
その全部が、俺の画面の向こうで燃え上がってた。

夜のマニラ。
通話が全部終わって、PCのファンの音だけが響く。
ふと気づいたら、俺ひとり。
50人を抱えて、結局“ひとり”。
モニターに映る自分の顔、あの頃はもう人間やなくてシステムの一部みたいやった。


第二章:海底ファイバー断絶の朝

朝七時、空が焼けてた。
サーバセンターの温度も上がって、モニターが赤く瞬く。

KDDI海底ファイバー断絶。通信網、全滅。
本社も現場も沈黙したまま、メッセンジャーの通知だけが鳴る。

「日本に繋がらない」「納期どうする」「お前が責任者だろ」
全部俺に飛んでくる。返す言葉も、助けも無い。

手のひらは汗でベタついて、鼓動がディスクファンの音と混ざる。
“考えろ。生き残る道を考えろ。”
台湾経由。残ってる経路を切り替えるしかない。

「ルートを台湾経由に切り替えろ!」
チャットを打つ指が震える。
それが、あの地獄をわずかに繋ぎ止めた一言やった。

数分後、ランプがひとつ、またひとつ点いた。
「サーバ応答あり」「VPN復旧」「通信確認完了」
みんなが安堵の声を上げる中、俺はただ指先を見つめてた。

落とせば全員が終わる。
それだけを、身体が覚えていた。

あの朝から、メッセンジャーの通知音がトラウマになった。
誰も気づかんかったけど、
あの瞬間から俺の中で何かが変わってた。


第三章:心を捨てたロボットの季節

感情を捨てたほうが、物事はスムーズに動く。
イライラも焦りも、全部“エラー要因”や。

だから俺は、朝起きてから夜寝るまで、
ただ機能として動く人間になった。

チャットが鳴れば反応。
設計が止まれば即修正。
部下のトラブルも、上司の無茶も、全部ログに落とす。

怒ることも、笑うこともなかった。
目の前のコードと通信ログだけが、世界のすべてやった。

「お前、寝てんのか?」と聞かれても、
「プロセス動いてます」って答えてた。

ある夜、マニラの空に稲光が走った。
停電。UPSが悲鳴を上げ、サーバの冷却ファンが止まる。
反射的にコンソールを叩く。冷静やった。
でも画面に映った自分の顔は、死人みたいに無表情やった。

その瞬間、腹の底が揺れた。
“あかん、このままやと壊れる”って思った。

翌朝、誰にも言わずに海沿いを歩いた。
潮の匂い。子どもらの笑い声。
世界はまだ、生きとった。
それに気づいた瞬間、涙が出た。


終章:もうええ、ようやった。生きて帰ってこい

マニラの最後の夜、空港の窓に映る自分の顔はもう誰かわからんかった。

数年後、夢を見た。
メッセンジャーが鳴って、画面の向こうで誰かが怒鳴ってる。
指が勝手に動く。
でも、目が覚めた瞬間に言った。
「もうええ。ようやった。生きて帰ってこい」

あの戦場はもう戻らんでええのよ;;
けど、あの地獄で鍛えられた胆力と冷静さは今の俺を作ってる。
リモートで働き、誰にも支配されず、自分のリズムでコードを書く。

あの頃の俺が地獄で拾った火種は、今、静かに燃えてる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました
~